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	<title>読書 &#8211; いちごいちえ（さぶろぐ）</title>
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	<description>記事の数だけ、新たな出会いがある。</description>
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	<title>読書 &#8211; いちごいちえ（さぶろぐ）</title>
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		<title>【雑記】どんな場合であっても公式の意向は最優先される、というのは大間違い</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Y. INABA]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 10 Jan 2020 18:51:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[ネットリテラシー]]></category>
		<category><![CDATA[読書]]></category>
		<category><![CDATA[ジョージ・オーウェル]]></category>
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					<description><![CDATA[はじめに 趣味や娯楽に興じる上で問題になってくるのが、公式と消費者のうち、どちらの意向を尊重するか、というところである。 もちろん、別の消費者に多大な迷惑をかけるようなことがあってはならないし、公式の活動の邪魔もできる限 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">はじめに</h2>



<p>趣味や娯楽に興じる上で問題になってくるのが、<strong>公式と消費者のうち、どちらの意向を尊重するか</strong>、というところである。</p>



<p>もちろん、別の消費者に多大な迷惑をかけるようなことがあってはならないし、公式の活動の邪魔もできる限りは控える方がよろしい。それだけに、公式が決めたことを消費者側が尊重しなければいけない場面は多々やってくる。</p>



<p>それでは、公式が消費者たちに対して迷惑行為や不適切な発言をしてきた場合はどうだろうか。ここで公式の意向を尊重していては、消費者たちは「やられ損」になるし、場合によっては泣き寝入りするしかなくなってしまう。だから、そうなる前後に当然批判の声は上がってくる。</p>



<p>このような批判行動は、過激化さえしなければ極めて健全な行いである。これにより、公式が謝罪をし、意識を改めつつ改善していったら、消費者側も引き続き公式の意向を受け入れられるだろう。</p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">「公式の言動は全部正しい」という盲信</h2>



<p>ところが、時には「<strong>公式のやっていることはすべて正しい</strong>」などという無茶苦茶な擁護をけしかけてくる連中が一定数いる。特に、「ポケモン」や「けものフレンズ」など、巨大化したコンテンツではしばしばあることだ。</p>



<p>このように公式の言動の一切を盲信する人たちは、過激なアンチ同様、穏当な方々からは煙たがられる存在である。周りが不満を訴えていたからとしても、盲信者たちはそのような言葉や行動を黙殺したり、発言者を無理やり叩いたりして、反対（のように見える）意見、あるいは発言者自身の価値観を受け入れることができない。</p>



<p>それでは、肝心の盲信者は、公式が不適切な言動をやらかしたとき、このことについてどう思っているのだろうか。言うまでもない、<strong>なんとも思っていないのだ</strong>。無理筋によって、頭の中で強引に正当化されてしまっているので、彼らにはおかしい部分が見えてこないのである。</p>



<p>たとえ一般の社会常識に照らし合わせれば間違っているとされていることでも、盲信者たちは公式を諌めることなどせず、むしろ無理やり持ち上げようとする。彼らは公式に対しては文字通りイエスマンでしかないので、こういったことしかできないのだ。</p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">『動物農場』における「囲いの羊」の異常さ</h2>



<p>ここで一つ、極めて有名な寓話である『<strong>動物農場</strong>』を紹介させていただく。</p>



<p>この物語はイギリスの作家であるジョージ・オーウェルの書いたもので、同氏の作品では『<strong>1984年</strong>』に並ぶ知名度を誇ると言っても良いだろう。</p>



<p>「とある牧場で暮らしている動物たちが、一致団結して人間たちを追い払い自由の身になった。ところが、支配層となった豚たちとその他の動物たちとの格差が次第に広まっていくとともに、そのことに疑問を持ったり反抗しようとしたりした動物たちはいなかったことにされる。結局、人間が襲撃を受けて牧場を手放す前よりもひどい状態になってしまった」というのが、話の概略である。</p>



<p>この話はもともとソ連を意識して書かれたものだそうで、当時同国との同盟を結んでいたイギリス（無論ジョージ・オーウェルの祖国）では発禁処分となっていた。しかしながら、第2次世界大戦後に発禁が解けて70年以上経過している今になっても、この話はあらゆる分野で通ずるものがある。</p>



<p>実は、話の中に、独裁者たる豚たちの手による「政策」について、善良な動物たちが疑問を持とうとするシーンがいくらか出てくる。しかし、その度に、<strong>豚の「囲い」である羊たちが突如シュプレヒコールを繰り返してくる。それだから、せっかく浮かんできた疑問も、ものの見事に打ち消されてしまう。</strong>こういったことがあったからこそ、渦中の「動物農場」（牧場の動物たちが解放後に付けた「国名」）は悲惨な結末を迎えることとなったのだ。</p>



<p>過激な信者の方々が『動物農場』の羊さながらにシュプレヒコールをあげつつ、公式を持ち上げてばかりいれば、まともなファンは離れていく一方であるし、じっくりと冷静に考えなければ、彼らに感化されることさえあり得るのだ。</p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">羊は豚を持ち上げて真っ当な動物を貶し、農場の情勢悪化を引き起こす</h2>



<p>羊は豚のやっていることが絶対に正しいと思い込んでいる（あるいは、そういうふりをしている）。そのため、どんなに建設的な意見であっても、批判には一切耳を貸さない。それどころか、場合によっては、独自理論で叩きのめそうとするなどして、諸悪の根源である豚を守ることすらしてくるのだ。</p>



<p>それにより害を被るのは、他でもない、多種多様な価値観、考え方をもつ動物たちだ。ある動物は上述の通り元からいなかったことにされ、またある動物は考える間もなく豚の言葉を受け入れ、またある動物は疑問を感じても口に出さずに終わってしまう。</p>



<p>その結果、いつしか価値観は一つに凝り固まってしまうとともに、豚の「権力」はますます強くなる一方で、生活格差すら広まる有様となった。動物たちが「動物農場」建国当初思い描いていたものとは、全然違っていたのである。</p>



<p>さて。<strong>この記事をご覧になっている貴方は、「囲いの羊」になっていないだろうか。あるいは、その羊たちの言葉に惑わされてはいないだろうか。</strong></p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">コンテンツが「動物農場」化するということ</h2>



<p>以上に書いた『動物農場』におけるこの構図、貴方もどこかで見たことはないだろうか。</p>



<p>そう、上の方で書いた、「公式のやっていることは全て正しい」とのたまっている方々、およびその人たちに守られる公式、というものだ。この状況が深刻化すれば、もはや「<strong>公式がどれだけ富めるかが全て</strong>」になってきて、本来ならば最優先すべきであるファンの方々への利益など、本当に意に介さなくなる。</p>



<p>豚たちは「農場」において最高権力者として君臨する中、「建国」当初は「人間の存在を思い出すといけないから」ということで禁じていた行為に、次々と手を出していった。このことを咎める手段は、もはや「農場」には存在していなかった。</p>



<p>それと同様、公式（の上層部）が私腹を肥やしているのを見ても、盲信者たちはこのことを喜ぶばかりで、<strong>自分が本来受けるべき利益のことなんて忘れてしまっている。</strong>真っ当なファンと同じく娯楽の受け手であるにも関わらず、公式がろくに仕事をしようとしていなかったところで、このことは全然気にしないのだ。その結果、<strong>真っ当な要望は蔑ろにされ、結果としてファン離れを引き起こし、ひいてはコンテンツの衰退を招いてしまう。</strong></p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">『動物農場』とカルト教団</h2>



<p>実を言うと、「オウム真理教」や「エホバの証人」を始めとしたカルト教団も、架空国家「動物農場」と同様の構図が取られていることが多い。</p>



<p>まず教祖がいて、それを支える幹部がいて、「熱心な」信者がいて、その下に「熱心でない」信者がいる。そして、教義の性質や教団の構造などからして、<strong>下に行けば行くほど「不幸」になってしまうから、信者たちは「熱心」に様々な活動をする。</strong></p>



<p>それでは、「熱心」であるかどうかについて、どう見分けるのか。一つのキーとなるのは、<strong>教祖や幹部などの言っていることを否定せず一切合切を受け入れる</strong>、ということだ。万が一疑問を持ったとしても、その時点で他の信者から変な目で見られてしまい、場合によっては今後の活動に支障が出てくる。だからこそ、ありもしない「幸福確約のプラチナチケット」を手に入れるため、自分を犠牲にしてでも、上層部が富んでゆくのに喜んで手を貸すのだ。</p>



<p>カルト教団の教祖や勧誘者は、<strong>この「プラチナチケット」が実際に存在する</strong>、などと布教して回っている。しかも「<strong>簡単に手に入れられる</strong>」と吹聴するのだから、たちが悪い。そして、この世から詐欺が一向になくならないのと同様、新たな入信者、ひいては被害者、犠牲者も、どうしても出てきてしまう。豚が羊を生み出し、また新たな羊やその他の動物を作り出してしまっているのだ。その後、豚たちだけがどんどん肥えていき、他の動物たちの暮らしは置き去りにされる。</p>



<p>以上のことから、<strong>『動物農場』は暗にカルト教団の恐ろしさを物語っている</strong>、とも言えるだろう。そして、<strong>娯楽コンテンツであっても「カルト化」するものは実在しうる</strong>、ということも分かる。</p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">取り返しのつかなくなる前に我が身を優先しよう</h2>



<p>言うまでもないことだが、<strong>消費者にとって、何よりもまず大事なのは自分の生活である。</strong>自分の生活をより豊かにするためにある娯楽において、公式の不手際、あるいは過激ファンや過激アンチの暴走行為のために、自分の心が大きく害されたとしたら、一旦は離れることも考えるのが良い。<strong>豊かになるべきものを見ようとして心貧しくなるのだったら、もはや本末転倒である。</strong></p>



<p>コンテンツから離れず、公式や周りの方々の言動に不満も言わず、我慢し続けてばかりいたとしよう。そうすると、やがては精神が著しく疲弊してしまい、うつになるか、もしくは八つ当たりがひどくなってしまう。前者であれば自分にとって大きな被害になるし、後者であっても人間関係が悪化する一方だ。どちらにしても、もはや取り返しはつかなくなる。</p>



<p>だからこそ、<strong>公式やファン、アンチがカルト化しつつあるときだけは、消費者は我が身可愛さで動いて良い。</strong>コンテンツから離れゆく貴方のことを止められる人など誰もいないし、<strong>いざというとき、貴方が頼りにできるのは貴方自身しかない。</strong>それに、どんどん穢れゆく公式を信じることによっては、満足感や爽快感など、手に入るわけがない。</p>



<p>そうは言っても、暴徒化、硬直化しつつあるコンテンツと距離をおくのは、さぞかし辛いことだろうと思う。付き合いが長く思い入れも一入なのであれば、尚更だ。しかし、<strong>これは「敵前逃亡」などという敗退行為ではない</strong>、とだけは言える。自分の暮らしを今後持ち直してゆくために絶対に必要なことで、他の誰かから非難される謂れはない。心身の平安がかかっている以上、手遅れになることは許されない。</p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">娯楽と付き合う「原点」を思い出そう</h2>



<p>そもそも、なぜ娯楽産業と付き合うかと言えば、「<strong>自分が楽しいと思っているから</strong>」だ。それ以上でもそれ以下でもない。楽しいと感じているがために、コンテンツとの付き合いが生まれるに過ぎない。</p>



<p>私の話をすれば、楽しいと思っているからご当地キャラさんたちの活動を応援しているわけだし、楽しいと思っているから鉄道に乗っているわけだし、楽しいと思っているからあちらこちらの風景を見て、グルメを味わっているのだ。他の理由もあるにせよ、一番はそれである。</p>



<p>時には不満もあって、そのことを言葉にする。でも、それは決して公式やファンを貶すためのものではない。コンテンツや業界の健全化、あるいはレベルアップを願ってのことだ。全ては「<strong>もっと楽しめるコンテンツにする</strong>」ためのものである。</p>



<p>もし、貴方の意向が公式等に到底受け入れられそうにないと感じるのならば、そのコンテンツは最早自分にとってはふさわしくないものになったのだ。「自分が楽しめる」という娯楽における最低限度をクリアできない以上は、離れるのが身のため、人のためだろう。</p>



<p>&nbsp;</p>



<p>最後に、くどいようだがもう一度。<strong>至らない公式や暴走している盲信者のために、決して我が身を犠牲にするな。</strong></p>
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		<title>【感想】『学びを結果に変えるアウトプット大全』（サンマーク出版）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Y. INABA]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Sep 2019 15:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[書籍・教材]]></category>
		<category><![CDATA[樺沢紫苑]]></category>
		<category><![CDATA[感想]]></category>
		<category><![CDATA[読書]]></category>
		<category><![CDATA[サンマーク出版]]></category>
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					<description><![CDATA[この記事は、『学びを結果に変えるアウトプット大全』という本について書いてみたものである。ご購入、ご検討の参考にしてくだされば幸い。 &#160; インプット偏重になりがちな我々への処方箋 これはとんでもない本だ。インプッ [&#8230;]]]></description>
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<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter"><img decoding="async" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51o50L%2BTq3L.jpg" alt=""/><figcaption>表紙イメージ（公式商品ページから）</figcaption></figure></div>



<p>この記事は、『学びを結果に変えるアウトプット大全』という本について書いてみたものである。ご購入、ご検討の参考にしてくだされば幸い。</p>



<span id="more-1634"></span>



<div class="blogcard"><a href="https://www.sanctuarybooks.jp/book-details/book1018.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer" data-blogcard="1">学びを結果に変えるアウトプット大全（サンクチュアリ出版）</a></div>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">インプット偏重になりがちな我々への処方箋</h2>



<p>これはとんでもない本だ。<strong>インプット偏重になりがちな私たちに鋭いメスを入れてくれる、とても痛快ですぐにでも使える優れ物</strong>である。 </p>



<p>実際のところ、私たちはインプット（「読む」「聞く」）に走ってしまいがちだ。自分に足りない知識を集めようとあちらこちらを奔走しては、頭の中に詰め込んでしまう。そうすることによってのみ、自分がようやく世間の一員として認められるかのように。 </p>



<p>しかし、インプットばかりやっていては、せっかく覚えようとしたこともなかなか覚えられない。実際、アウトプット（「話す」「書く」「行動する」）の伴わないインプットは、どうあがいたところで長期記憶に保管されるようなことはないし、周囲や世界を変えることもできない。 </p>



<p>この本は、アウトプットにまつわる重要性を様々な方面から、科学的なデータを交えて紹介しており、とてもためになる一冊ではないかと思った。今後の執筆活動においても大きな影響を受けた本になりそうで、書かれてあることを身につけずにはいられない。 </p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">なぜアウトプットが重要なのか </h2>



<p>著者は、インプットとアウトプットについて、時間における「黄金比」を「3対7」としている。すなわち、<strong>アウトプットはインプットのおよそ二倍の時間をかけなければいけない</strong>、ということになる。 </p>



<p>どうしてそこまで長い時間をかけなければいけないのか。例えば、本の感想なら、読書メーターやTwitterで少し書いて終わりにすれば良いのではないだろうか――。だが、そうは問屋が卸さない。本の内容を記憶する上では、アウトプットが欠かせないのである。<strong>アウトプットが伴っていなければ、あやふやなことしか説明できない。</strong>脳には意外と記憶は残らないもので、話したり書いたりすることで初めて記憶として定着しやすくなるのだ。 </p>



<p>インプットをしたら、まずはアウトプットである。「本を10冊読んで一冊もアウトプットしなかった」というよりは、<strong>「3冊しか読んでいないけれども3冊ともアウトプットした」</strong>ということの方が価値は高い。自分にとって読んだ本がどういう位置づけであるかなどが記録として分かりやすくなるし、自分の言葉で説明しようとする努力により記憶としても残りやすくなる。 </p>



<p>また、<strong>アウトプットすることによってのみ自分や世の中を変えることができる</strong>、と著者は主張する。インプットはあくまで自分の中身を変えるだけに終わるので結果として外の世界には何の変化ももたらさない。一方で、アウトプットは実際に身体を動かすので記憶に定着しやすくなるし「成果」にもなる。また、外の世界に働きかけることさえできる。アウトプットなくして、変革はあり得ない。だからこそ、アウトプットはインプットに劣らず重要なのである。 </p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">サイクルとフィードバック </h2>



<p>できることなら、<strong>「インプットとアウトプットのサイクル」を確立することが望ましい。</strong>少しインプットをして、アウトプットに時間をかけて、を繰り返すのだ。数学や英語などの問題集に手を付けるイメージである。<strong>知識として新しく覚えたことを類似の問題で確かめる、ということを継続する</strong>のである。 </p>



<p>その際に重要なのが<strong>「フィードバック」</strong>だ。これは自分がアウトプットしたものについて、<strong>自分自身で何かしらの反応をする</strong>ということである。「どこで間違えたのだろうか」「どうして成功したのだろうか」「どうやれば短時間で済ませることができるだろうか」というような考察は、全て「フィードバック」である。<strong>「フィードバック」なくして、自身のアウトプットが改善されることはない。</strong> </p>



<p>学校のテストで50点しか取れなかったとしても、どこをどうしたらそんな点数になったのか、しっかりと振り返ろうとするのは、しっかりと「フィードバック」を行っていることになる。一方で、80点を取ったとしても、正答した部分と誤答した部分についての振り返りが一切ないのであれば、「フィードバック」はやっていないことになる。どちらの方が「伸びしろ」があるかは明白であろう。 </p>



<p>もちろん、「フィードバック」は自分だけで行うのは大変に難しい。友達や先生といった協力者が必要不可欠だ。とは言っても、今すぐに協力してもらうというのも難しいと思うので、<strong>普段から協力し合えるような関係作り</strong>に励んでおくというのが良いのではないだろうか。 </p>



<p>&nbsp;</p>



<h2 class="wp-block-heading">今からアウトプットするには </h2>



<p>具体的なアウトプット（すなわち、「話す」ことと「書く」こと）の方法論については、本記事では説明をしない。ぜひとも本書を手にとって読んでいただきたいところだ。 </p>



<p>その代わり、アウトプットを今すぐにやりたいという方向けに、巻末で紹介されている手法を紹介する。 </p>



<ol class="wp-block-list"><li>日記を書く </li><li>健康状況の記録をする </li><li>読書感想を書く </li><li>情報発信する </li><li>SNSに書く </li><li>ブログを書く </li><li>趣味について書く <br></li></ol>



<p>これらがどうして効果的であり、続けるにはどうすれば良いのかについては、ぜひとも本書を手にとって読んでいただきたいと思う。 </p>



<p>アウトプットは紙とペンさえあればすぐにでも始めることができる。あるいは、TwitterやFacebookを使ってさえいれば、始めるのは容易だ。これらのツールを使うことで自分の記憶力が増強されるのだとすれば、やらないわけにはいかなくなるだろう。 </p>
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