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【雑記】どんな場合であっても公式の意向は最優先される、というのは大間違い

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はじめに

趣味や娯楽に興じる上で問題になってくるのが、公式と消費者のうち、どちらの意向を尊重するか、というところである。

もちろん、別の消費者に多大な迷惑をかけるようなことがあってはならないし、公式の活動の邪魔もできる限りは控える方がよろしい。それだけに、公式が決めたことを消費者側が尊重しなければいけない場面は多々やってくる。

それでは、公式が消費者たちに対して迷惑行為や不適切な発言をしてきた場合はどうだろうか。ここで公式の意向を尊重していては、消費者たちは「やられ損」になるし、場合によっては泣き寝入りするしかなくなってしまう。だから、そうなる前後に当然批判の声は上がってくる。

このような批判行動は、過激化さえしなければ極めて健全な行いである。これにより、公式が謝罪をし、意識を改めつつ改善していったら、消費者側も引き続き公式の意向を受け入れられるだろう。

 

「公式の言動は全部正しい」という盲信

ところが、時には「公式のやっていることはすべて正しい」などという無茶苦茶な擁護をけしかけてくる連中が一定数いる。特に、「ポケモン」や「けものフレンズ」など、巨大化したコンテンツではしばしばあることだ。

このように公式の言動の一切を盲信する人たちは、過激なアンチ同様、穏当な方々からは煙たがられる存在である。周りが不満を訴えていたからとしても、盲信者たちはそのような言葉や行動を黙殺したり、発言者を無理やり叩いたりして、反対(のように見える)意見、あるいは発言者自身の価値観を受け入れることができない。

それでは、肝心の盲信者は、公式が不適切な言動をやらかしたとき、このことについてどう思っているのだろうか。言うまでもない、なんとも思っていないのだ。無理筋によって、頭の中で強引に正当化されてしまっているので、彼らにはおかしい部分が見えてこないのである。

たとえ一般の社会常識に照らし合わせれば間違っているとされていることでも、盲信者たちは公式を諌めることなどせず、むしろ無理やり持ち上げようとする。彼らは公式に対しては文字通りイエスマンでしかないので、こういったことしかできないのだ。

 

『動物農場』における「囲いの羊」の異常さ

ここで一つ、極めて有名な寓話である『動物農場』を紹介させていただく。

この物語はイギリスの作家であるジョージ・オーウェルの書いたもので、同氏の作品では『1984年』に並ぶ知名度を誇ると言っても良いだろう。

「とある牧場で暮らしている動物たちが、一致団結して人間たちを追い払い自由の身になった。ところが、支配層となった豚たちとその他の動物たちとの格差が次第に広まっていくとともに、そのことに疑問を持ったり反抗しようとしたりした動物たちはいなかったことにされる。結局、人間が襲撃を受けて牧場を手放す前よりもひどい状態になってしまった」というのが、話の概略である。

この話はもともとソ連を意識して書かれたものだそうで、当時同国との同盟を結んでいたイギリス(無論ジョージ・オーウェルの祖国)では発禁処分となっていた。しかしながら、第2次世界大戦後に発禁が解けて70年以上経過している今になっても、この話はあらゆる分野で通ずるものがある。

実は、話の中に、独裁者たる豚たちの手による「政策」について、善良な動物たちが疑問を持とうとするシーンがいくらか出てくる。しかし、その度に、豚の「囲い」である羊たちが突如シュプレヒコールを繰り返してくる。それだから、せっかく浮かんできた疑問も、ものの見事に打ち消されてしまう。こういったことがあったからこそ、渦中の「動物農場」(牧場の動物たちが解放後に付けた「国名」)は悲惨な結末を迎えることとなったのだ。

過激な信者の方々が『動物農場』の羊さながらにシュプレヒコールをあげつつ、公式を持ち上げてばかりいれば、まともなファンは離れていく一方であるし、じっくりと冷静に考えなければ、彼らに感化されることさえあり得るのだ。

 

羊は豚を持ち上げて真っ当な動物を貶し、農場の情勢悪化を引き起こす

羊は豚のやっていることが絶対に正しいと思い込んでいる(あるいは、そういうふりをしている)。そのため、どんなに建設的な意見であっても、批判には一切耳を貸さない。それどころか、場合によっては、独自理論で叩きのめそうとするなどして、諸悪の根源である豚を守ることすらしてくるのだ。

それにより害を被るのは、他でもない、多種多様な価値観、考え方をもつ動物たちだ。ある動物は上述の通り元からいなかったことにされ、またある動物は考える間もなく豚の言葉を受け入れ、またある動物は疑問を感じても口に出さずに終わってしまう。

その結果、いつしか価値観は一つに凝り固まってしまうとともに、豚の「権力」はますます強くなる一方で、生活格差すら広まる有様となった。動物たちが「動物農場」建国当初思い描いていたものとは、全然違っていたのである。

さて。この記事をご覧になっている貴方は、「囲いの羊」になっていないだろうか。あるいは、その羊たちの言葉に惑わされてはいないだろうか。

 

コンテンツが「動物農場」化するということ

以上に書いた『動物農場』におけるこの構図、貴方もどこかで見たことはないだろうか。

そう、上の方で書いた、「公式のやっていることは全て正しい」とのたまっている方々、およびその人たちに守られる公式、というものだ。この状況が深刻化すれば、もはや「公式がどれだけ富めるかが全て」になってきて、本来ならば最優先すべきであるファンの方々への利益など、本当に意に介さなくなる。

豚たちは「農場」において最高権力者として君臨する中、「建国」当初は「人間の存在を思い出すといけないから」ということで禁じていた行為に、次々と手を出していった。このことを咎める手段は、もはや「農場」には存在していなかった。

それと同様、公式(の上層部)が私腹を肥やしているのを見ても、盲信者たちはこのことを喜ぶばかりで、自分が本来受けるべき利益のことなんて忘れてしまっている。真っ当なファンと同じく娯楽の受け手であるにも関わらず、公式がろくに仕事をしようとしていなかったところで、このことは全然気にしないのだ。その結果、真っ当な要望は蔑ろにされ、結果としてファン離れを引き起こし、ひいてはコンテンツの衰退を招いてしまう。

 

『動物農場』とカルト教団

実を言うと、「オウム真理教」や「エホバの証人」を始めとしたカルト教団も、架空国家「動物農場」と同様の構図が取られていることが多い。

まず教祖がいて、それを支える幹部がいて、「熱心な」信者がいて、その下に「熱心でない」信者がいる。そして、教義の性質や教団の構造などからして、下に行けば行くほど「不幸」になってしまうから、信者たちは「熱心」に様々な活動をする。

それでは、「熱心」であるかどうかについて、どう見分けるのか。一つのキーとなるのは、教祖や幹部などの言っていることを否定せず一切合切を受け入れる、ということだ。万が一疑問を持ったとしても、その時点で他の信者から変な目で見られてしまい、場合によっては今後の活動に支障が出てくる。だからこそ、ありもしない「幸福確約のプラチナチケット」を手に入れるため、自分を犠牲にしてでも、上層部が富んでゆくのに喜んで手を貸すのだ。

カルト教団の教祖や勧誘者は、この「プラチナチケット」が実際に存在する、などと布教して回っている。しかも「簡単に手に入れられる」と吹聴するのだから、たちが悪い。そして、この世から詐欺が一向になくならないのと同様、新たな入信者、ひいては被害者、犠牲者も、どうしても出てきてしまう。豚が羊を生み出し、また新たな羊やその他の動物を作り出してしまっているのだ。その後、豚たちだけがどんどん肥えていき、他の動物たちの暮らしは置き去りにされる。

以上のことから、『動物農場』は暗にカルト教団の恐ろしさを物語っている、とも言えるだろう。そして、娯楽コンテンツであっても「カルト化」するものは実在しうる、ということも分かる。

 

取り返しのつかなくなる前に我が身を優先しよう

言うまでもないことだが、消費者にとって、何よりもまず大事なのは自分の生活である。自分の生活をより豊かにするためにある娯楽において、公式の不手際、あるいは過激ファンや過激アンチの暴走行為のために、自分の心が大きく害されたとしたら、一旦は離れることも考えるのが良い。豊かになるべきものを見ようとして心貧しくなるのだったら、もはや本末転倒である。

コンテンツから離れず、公式や周りの方々の言動に不満も言わず、我慢し続けてばかりいたとしよう。そうすると、やがては精神が著しく疲弊してしまい、うつになるか、もしくは八つ当たりがひどくなってしまう。前者であれば自分にとって大きな被害になるし、後者であっても人間関係が悪化する一方だ。どちらにしても、もはや取り返しはつかなくなる。

だからこそ、公式やファン、アンチがカルト化しつつあるときだけは、消費者は我が身可愛さで動いて良い。コンテンツから離れゆく貴方のことを止められる人など誰もいないし、いざというとき、貴方が頼りにできるのは貴方自身しかない。それに、どんどん穢れゆく公式を信じることによっては、満足感や爽快感など、手に入るわけがない。

そうは言っても、暴徒化、硬直化しつつあるコンテンツと距離をおくのは、さぞかし辛いことだろうと思う。付き合いが長く思い入れも一入なのであれば、尚更だ。しかし、これは「敵前逃亡」などという敗退行為ではない、とだけは言える。自分の暮らしを今後持ち直してゆくために絶対に必要なことで、他の誰かから非難される謂れはない。心身の平安がかかっている以上、手遅れになることは許されない。

 

娯楽と付き合う「原点」を思い出そう

そもそも、なぜ娯楽産業と付き合うかと言えば、「自分が楽しいと思っているから」だ。それ以上でもそれ以下でもない。楽しいと感じているがために、コンテンツとの付き合いが生まれるに過ぎない。

私の話をすれば、楽しいと思っているからご当地キャラさんたちの活動を応援しているわけだし、楽しいと思っているから鉄道に乗っているわけだし、楽しいと思っているからあちらこちらの風景を見て、グルメを味わっているのだ。他の理由もあるにせよ、一番はそれである。

時には不満もあって、そのことを言葉にする。でも、それは決して公式やファンを貶すためのものではない。コンテンツや業界の健全化、あるいはレベルアップを願ってのことだ。全ては「もっと楽しめるコンテンツにする」ためのものである。

もし、貴方の意向が公式等に到底受け入れられそうにないと感じるのならば、そのコンテンツは最早自分にとってはふさわしくないものになったのだ。「自分が楽しめる」という娯楽における最低限度をクリアできない以上は、離れるのが身のため、人のためだろう。

 

最後に、くどいようだがもう一度。至らない公式や暴走している盲信者のために、決して我が身を犠牲にするな。

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