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【雑記】国立大学医学部医学科の中退生が、教育虐待について思うところを書いてみる

はじめに

近年何かと話題になっている「教育虐待」。私にも結構身に覚えがあります。当事者とさえ言うことができるかもしれません。

過去の私自身の略歴にも触れながら、思うところをざっくりまとめていきたいと思います。

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私の受けた「教育虐待」

以前にも私がX(旧Twitter)で触れたことがある通り、私は国立大学の医学部医学科の在学経験があります(とは言っても、実質一年半ほどですが)。

国立大学の医学部医学科と言えば、皆さんご存じの通り、大学受験の中でも花形中の花形の学科です。どんなに真面目に勉強を頑張り続けたからというだけで合格が保証されるようなところではありません。私立の医学部医学科よりもはるかに難しいです。1浪しようが9浪しようが、合格できない人はなかなかできません。

そういった入りにくい大学に通ることができたので、入学時点では私は少なくとも「勉強のよくできる子」だったのは間違いありません。ただ、高校生時代の恩師の方々からはかなり喜ばれたものの、父母ともに良い言葉をかけられた記憶はほぼありませんでした。それどころか、母親からは散々嫌な言葉をかけられたものです。

以下、簡単に時系列ごとに書いていくことといたします。

中学・高校時代

まず、簡単に中学時代や高校時代を振り返ってみることといたします。

当時は、人並み以上には勉強詰めの日々を過ごしたように思います。まあ、インターネットも結構やっていましたので、そういった意味では幸いでした(もしできていなかったら冒頭にある事件の通りになっていた可能性は十分にあります)。

中学や高校でテストで満点を取れなければ母親がすぐに不機嫌になるものでした。定期テストや模擬試験で満点や学年トップを取ることだけが母にとって重要課題であり、たとえ90点だろうが99点だろうが、取れなかった10点や1点の部分を詰られまくったものです。これも、全ては「医学部医学科合格のため」であり、「将来、何の不自由もない暮らしをするため」でもあったのです。

母親の話が出ましたが、父親はどうだったかと言えば、全く私や母親のことに干渉してきませんでした。いくらかアドバイスめいたことを言うものの、世帯全体の世話を母親に押しつけるような父親でしたので、あまり当てにすることはできなかったと思います。

一応、学校の課題の他に、某通信添削の教材も取り寄せてくれました。そういった資金を割いてくれたことには感謝しております。しかしながら、ノルマが過剰であり、全てをこなすことは無理でした。

大学受験時に受けた屈辱

大学受験に関しても、現役時代のときは国立・公立の医学部医学科に挑戦するも全て不合格となり、他学部に挑戦する余地は与えてはもらえませんでした(地元国立の工学部や理学部くらいならば、間違いなく通っていたと思います)。そのことについても、母親からはひたすら叩かれたものです。クラスメイトは行く大学があるというのにお前だけないのが恥だとも言われました。

今ならば「母親自身も私立文系卒業のくせによく言えるな」というくらいの言葉は思いつきますが、当時は母親が絶対でしたので、言い返す気など、到底なれはしませんでした。ただただ、母親からの侮辱の言葉の数々をそのまま受け取る他なく、受け流すことすらできませんでした。思い返せば、このときに受けた屈辱が最も私に堪えたと思います。

ここで「他の受験生のように生きても良いんだ」というような許しがあったのならば話は別だったのかもしれませんが、母親はそういった生き方を決して許そうとはしませんでした。それどころか、自分自身がろくに仕事もしなかったのに、一般的な社会人のことを見下していた感があります。そのくせ他責思考もよく見られ、自分の人生がうまくいかないのを母の両親や自身の夫のせいにしてばかりでした(もし仮に母親が5chやSNSなどで私や家族のことを愚痴ったら、まず間違いなく書いた本人が叩かれるでしょう)。

それでも、下記の通り、一浪して国立大学の医学部医学科に合格しています。今ならば「我ながら、良くやったものだ」と思います。ただ、以前はこのことも大きな劣等感の1つとなっておりました。

大学入学するも……

入学以後の生活については、お世辞にもうまく行ったとは言えないものでした。私は大学(とりわけ専門課程)の勉強にはついていくことができず、また友達づきあいもまばらだったこともあって、通い続ける意欲を次第に失っていきました。

その以前より、インターネットや勉強ばかりでなく、先生や友達との付き合いの大切さを教わる場があれば、もしかすると状況は良くなっていたのかもしれません。しかし、何せ母親も父親もあまり友達付き合いするような人ではありませんでしたから、当時の私がこうなってしまったとしても、決してあり得ない話ではないと思います(ということにしないと私の精神が持ちません・苦笑)。ただ、私も友達ともっとお喋りできていればな、と後悔することはありますね。

ここで普通の大学生ならば、転学を志望し、他の学部で再スタートすることもできたかと思います。当時、私は数学や物理学には興味がありましたから、理学部や工学部などでやり直すことも当然できたはずです(もちろん、1年や2年余計にかかるのは承知ですが)。

しかし、母親はここでも口を出すわけです。学費のことはほとんど触れませんでしたが、私の当時の気持ちを無視したコメントを数々言ってきたのですね。いわく、並一般の仕事にも就職できないだの、お前が医学部にすると言ったからそのままにしろだの、周囲に面目が立たないだのと言うようなことです。

今思えば、大学生の身分とはいえ、とっくに成人している私の人生の決断事項にちょっかいをかけまくること自体がおかしいのですが、母親はそのことを全然疑問に思わなかったようです。まともな助言も得られるような状況ではなく、そのために我が身を振り返ることもできなかったのですから、そう思ってしまうのも無理はないでしょう。

結局、色々と悶着がありましたが、中退するに至ることとなりました。中退するまでにも大学の授業に戻れだの何だのと色々とうるさかったのですが、最後は外圧もあって仕方なく、といった感じでした。絶対に納得はしていなかったと思います。ちなみに、父親はこの間、家に金を渡すだけで、ほぼ何も口を挟みませんでした。

今でこそ、絵に描いたような毒親の両親と状況を理解することはできますが、当時の私には何もすることができませんでした。

中退後、断絶に至るまで

中退した後、ずっと嫌悪だった父母の仲がとうとう決裂し、しかも母親が不義を犯したため(詳しくは申せません)、離婚という形になりました。親権についても一悶着あったようですが、最終的に父親の方に残ることとなりました。このときばかりは父親や両方の祖父母の働きに感謝をしております。

ただ、そうはいっても、父親も自分のこと以外はあまり顧みない方なので、数年もしたら縁は切れてしまいました。一応、仕事上で知り合った女性の方と再婚しておりますが、その女性(つまり義理の母)の話を聞く限り、うまくいっていないようです。そういった意味では、父親にとっても、20年以上も婚姻関係を続けていた以上、母親はある意味で都合が良かったのだと思います。

「虐待犯」である母親とは、父と離婚してからは全然連絡をとっていません。そして、もはや連絡する気にもなれません。今どうしているのか、存命しているのかすらも分からないのですが、たぶんそれで良いと考えています。

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