以前の記事でも申し上げたことがありますが、私はもともと岡山に住んでいまして、私情により2018年10月頃に出雲の方へとやってきております。それまでは山陰とはほとんど縁のない暮らしをしておりました(家族旅行で温泉地を訪ねたことがあるくらいです)。
そんな私が出雲で暮らしていて良かったと思うこと、逆に不便だと思ったことを、改めて簡単にまとめることといたします。
移住して良かったこと
- 山陽、関西、あるいは関東の都市部と比べますと、人口が単純に少ない分、スーパーやショッピングモールなどで大行列ができる、というようなことは起こりにくいです(もちろんゼロというわけではありませんが)。お目当てのものを求めるがために列に並んで何かを待つ、なんてことも滅多にありません。長い待ち時間のためにイライラすることもほとんどないです。
- 山陰は自然と神話に満ちあふれております。少し車を走らせれば海にも山にもアクセスできますし、古代遺跡を巡ることも容易いです。ちょっとしたリフレッシュのために近所の観光スポットを気軽に利用できるという、地元住民ならではの特権も良いですね。
- 海の幸や山の幸、その他さまざまな食物を、新鮮なうちに食することができるのも、地元住民さまさまというところでしょうか。特に海産物の美味さは抜きん出ていると思います。決してのどぐろだけが山陰の名産とは言えませんし、言いたくもありません。
- 都会にありがちな高層ビルが立ち並ぶ光景はまずあり得ず、歩いたり走ったりしているときに圧迫感を感じることはないと言って良いでしょう。視界は開けていて見通しもなかなか良いので、どこに何があるかパッと見で分かりやすいと思います。
不便だと感じていること
- 鉄道や路線バスをはじめとする公共交通機関は貧弱の一言です。(利用客の少なさからして当たり前のことではありますが……)例えば、鉄道は一部区間を除けばほぼ単線で、なおかつ本数はお世辞にも多いとは言えません。各駅停車が1時間以上来ないこともざらにありますし、電車の待ち合わせ等のために駅で10分以上滞留することもよくあります。路線バスも30分に1本あれば良い方で、一度バスを逃せば1時間や2時間も待たないといけなくなる、なんてことも起こり得ます。
- 公共交通機関が心もとないということもあり、日常生活ではほぼ車が必須です。逆に車がないと行きたい場所にもアクセスできず、できないことばかりが増えていきますので、ストレスがかなり溜まります。電車の時刻表と睨めっこしながら予定を組み続けるくらいなら、さっさと車を買って自由に行動できるようにしておいた方が心身のためだと思います。
- 上でも申し上げた通り、人口が少ない分、建物もそんなにないので、見晴らし自体は良いです。その代わり、どこを歩いていても結構目立ちます。「友達や同僚に内緒でどこかに行こう」と思って行動に移しても、見つかってしまう危険性は大きいです(無論人口の多い都市部の状況と比べれば、の話ではあります)。
- 大きな商店や量販店も数が限られており、物を買いに出かけるときにはどうしても同じような場所にしか行かず、同じような行動にしかならないこともあって、特に休みの日は単調になりがちです。
大事なのは「住めば都」の精神
色々とあげてはみましたが、住み始めた当初と比べると、住環境にも慣れ、かなり暮らしやすくなっていると感じています。こうなったのは、「住めば都」の精神でやり過ごし続けてきたこともあるのかもしれません。
移住当初こそ不慣れなことも多く、当たり前だと感じていたことが当たり前ではなくなっていて、少々息苦しさを感じておりました。しかし、一旦生活に慣れてしまうと、たいていの不安や不満はどうでも良くなります。もちろん不満の全てを放置するわけにはいきませんが、自分の力だけではどうしようもない部分も少なくありません。そこでとりあえず問題を「ほったらかし」にするのですが、これは常套手段と言って良いです。これにより、たいていの不満は解決されないまま終わってしまいますが、それで私生活に何ら影響のあるものではないでしょう。それで良いと思っています。些細な事物を追い求めることに執着するがために人生を台無しにする方が、人生全体においてはよほど危険です。
出雲というところは、東京、大阪、広島などといった大都市と比べると、確かに足りないところだらけと言っても良いでしょう。岡山と比べても、見劣りを感じる人は少なくないと思います。しかし、それでも日常生活を送ることはできますし、見ようによっては新たな楽しみを見つけ出すこともできるでしょう。
今まで住んだことのない場所に移り住むのだったら、これまでの人生にはなかったような変化や出会いがあって当たり前です。そういった巡り合わせを楽しむのも、人生の醍醐味なのではないかと、今になって私は思うわけです。もっとも、このブログのタイトルが「いちごいちえ」というところも、そういった趣向で生きていこうとしている証左ではありますけどね。
一見すると同じようにしか見えない「出会い」のなかにも、何かしらの違いが隠れているかもしれない。大まかには合っていても、細かいところでは違うかもしれない。そういった微妙な差異を見逃さないくらいの鑑識眼を持つことによって、物事の本質を見抜くとともに、「違いそのものを楽しむ」くらいの余裕を持ちたい。今の私は、そう思っている。
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